ザーサイ置き場


生きるために

 警察の声も聞きたくなくなって俺は家から飛び出した。俺には、もう何もかも耐えられない。

 後ろから追ってくる声をにも耳を貸さず、走り続けていたら崖の淵まで来た。ここから飛べば何もかも救われるような気がする。
足が微かに恐怖を訴えた。
空は青く澄み渡っており、俺が解放されるのを黙って待っている。光が眩しい。母も待っている。

足を踏み出す。世界がひっくり返る。吹き上げる風は心地よく、目を閉じてしまいたいくらいだ。だけど、目を見開いてこの世界を最後まで見届ける。

長いようで短い滞空時間を終えて、俺の体は地面で跳ねた。

 

 暗闇。
意識を取り戻してから暗闇が俺の世界をかたどっている。崖から落ちた衝撃で見えなくなったのだろうか。
それにしても不思議である。
俺が飛び降りた崖は確かにそんなに高くはなかった。しかし、少なくとも目が見えなくなる程度ではすまないはずだろう。いや、寧ろ器用に目だけが損傷を受けるなんて都合のいい話なんてあるのだろうか。
何か草木がクッションになったのか?最初はそう思ったのだが手探りで探す限りそれらしいものは無く辺りは硬い地面だった。
運が良かったのか、悪かったのか。だけど、あれほど死にたくなっていたというのにあの衝動はいつの間にか引いてしまっていた。

どういうことなのだろうか。一瞬の気の迷いというやつなのだろうか。そうだとしたら、どれだけ恐ろしいことなのだろうか。俺は肩を抱き、小さく震えた。

 とにもかくにも自分が今倒れているのが冷たい慣れ親しんだ石畳だとわかるまでそう時間はかからなかった。きっと路地裏か何処かだろう。
 そういえば母が確か人ではない生き物に話しかけてみなさいとも言っていたような気がする。少し気になった俺は試すことにした。
ちょうど自分のすぐ頭上あたりでけたたましい声が聞こえる。コマドリのようだ。
俺はこいつに話しかける事にした。
「おい。そこのコマドリ」
『何だい?なんつって。通じるわけねぇし』
動物の声は直接頭の中に響いているみたいだった。本来の声らしい鳴き声もちゃんと聞こえている。頭の中の声も随分綺麗な声だが、残念なことに口が悪いらしい。
今まで意識して聞いていなかった上に外の声なんてほとんど聞こえなかったからこの脳裏に響く声に気がつかなかったが、こうして意識してみたらはっきりと聞こえる。
「うるさいなんて失礼な。俺はお前らの言葉くらいわかる」
『なんだって?わかる奴なんているもんなんだな。で、何のようだ?クソガキ』
初対面でクソガキかよ。少し苛ついたが我慢をする。
「口が悪いなぁ。まぁお前でいいや。こっちに来い。道を案内してくれ」
『悪いが暇じゃ無いんだ。飯を用意してくれるなら話は別だがな』

飯か……生憎俺は持っていない。
家にはもう戻らないつもりだし、この際盗人になってしまおうかと考えた。実際、もう人殺しなんだからな。
「飯は今から盗りに行く。お前も着いて来て道案内してくれるなら分けてやっても構わない」
『ふぅん。わかったぞガキ。着いて行ってやる』
「それなら頭の上に乗ってなるべく詳しく辺りの様子を教えてくれないか?目が見えないんだ」
『目が見えないくせに盗人になろうなんて馬鹿な話だ。捕まっても助けてやらないからな』
とりあえず交渉は成功だ。見えなくても教えてくれればきっとわかるだろう。
俺はそう予想しコマドリに道案内を頼んだ。しかしうまくやってくれるかが心配だ。それに暗闇の中歩くなんて正直言って自分も怖い。

もし捕まったら……?それより歩けるのか……?
念のため何かあった時のために石をいくつか拾っておく。捕まりそうになったら母を殺したあの力を使ってみるか……。
「じゃあパン屋まで案内してくれ」
不安を胸に抱きながら俺はコマドリを頭の上に乗せる。そして見えない世界を上から降ってくる声を聞きながら覚束ない足取りで歩き出した。

手を前に出して歩きたい気持ちだが、そんなことをすれば変に目立ってしまうだろう。そしたら、盗みなんてすることが出来なくなってしまう。

コマドリの言葉だけが俺の世界だ。
『そう……そこだ。止まれ。右側にお目当てのパン屋だ』
フラフラしながらも何とかパン屋の前にたどり着いた。途中で転びかけた回数は二十を越えただろうか。
緊張で息が止まりそうだ。頭の中に協会の鐘が出来たみたいだった。
それでもなんとか飾られているらしいバケットに恐る恐る手を伸ばす。何とか一つのバケットに手が当たった瞬間、右斜め前辺りから怒鳴り声が聞こえてくる。
「おい!そこのガキ!まさかパンを盗もうなんてしてないよな!?」
『げっ!逃げろガキ!』

俺はとにかくバケットを片手に逃げることにした。もたつく足を必死に動かして何度も転びかけながら走る。
後ろから迫ってくる顔の無い声はホラー映画の主人公になった様な感覚に陥らせる。
しかし走っている時もコマドリの指示は適切で、つねに俺が走っている前の風景を正確に伝えてくる。さらに、安全な方へと導いてくれるので恐怖も少しだけマシな方だ。
 しかし、無情にも声はどんどん近づいてくる。気がつけば息づかいや足音が聞こえるまで近づいていた。
『ガキ!もう少し速く走れ!捕まるぞ!』
「そんなこと……言われても……そうだ!」
俺はその時、石をポケットに忍ばせていたことを思い出した。
すかさず俺は後ろに振り返る。恐らく真後ろに奴はいる。顔の無い化け物が後ろに。
『標的指定 パン屋のおじさん』
その一言を呟いて石をかるく宙に放り投げた。
「待て!このガっ……いてえ!」
どうやら命中したようだ。俺は勇者になった気分になりガッツポーズをする。
「よっしゃぁ!!」
『ガキ!今のうちに逃げるぞ!』

声はどんどん離れていく。人々の喧騒も離れていく。恐怖で溢れそうになっていた涙は引っ込んだ。

『ガキ、もう大丈夫だ。休もう』

「はぁ……はぁ……なんとか逃げ切れた……」
『お前、やるじゃねぇか。さっきの標的何たらって何なんだ?』
 コマドリ曰く路地裏の一角に何とか逃げこむことが出来たらしい。俺は座り込んで休む。
「よくわかんないけど……多分俺の特技?」
『特技の域越えてやがるっ!俺は感動したぜ!?』
コマドリはやたら興奮した口調でそう言う。とりあえず俺は腹ごしらえのためにバケットをかじる。
そしてバケットを小さくちぎってコマドリに与えた。
今後どうしたらいいのだろうか……。

俺は途方に暮れた。